昭和五十七年五月一日 朝の御理解


御理解七十九節
商売をするなら買い場売場と云うて、元を仕込むところと売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭の損のようでも、安うすれば数が売れるから大流行、その方が得じゃ。身体はちびるものではないから働くがよい。


 天地の中には、人間氏子を幸福にせずにはおかんという働きだけしかあっていないのです。その天地の願いというか、働きを充分に受けようと思えば、また御理解にありますように、ままよという心を出さねばおかげはうけられぬ。ままよとは死んでもままよの事で事で、とこう、それはどういうことかというと、天地のそうしてまあ切実心、天地のいわゆる心を心として行くことなんですけれども、それにはまず私共が人間心をいわゆる、かなぐり捨てるというかね。人間心を取り除かねば、神様のそういうおかげを充分に受けるということは出来ませんね。 人間心が入りますと、ね、人間心が入った分だけのおかげは少なくなる。それをなら、教祖はままよという心になれよとこう仰せられるのです。
 例えば今日の御理解などは、なかなかもって私共も長年商売をして参りましたが、この御教えをなかなか行じきれなかった。いくら仕入れた物を、いくらに売らねばならんというまず人間心でソロバンをはじいてある。その枠から一歩も出てない。商売人だから、儲かるということが商売なんだから、儲かりたい儲かりたいという思いを捨てきらない。ちっとでも分のいいような売り方をしたいとこう思うね。
 そういうところを私共がね、その気になっていうなら、御教えに基づく商売をさしてもらうということに、も、その気になるということが、人情を捨てるということです。人間心を捨てるということです。そこからいうなら何というでしょうかね、まあ昔からいわれます、損して得とれといわれますがね、そこから不思議な働きが起こって来て、ま、不景気不景気というても、不景気しらずのおかげが頂けるような働きが起こって来るんですね。
 人間心をまず、私共は合楽理念の、を、まあ行者たらんとするためには、まず、今人間心をとることだと思うですね。それこそあの人に頼もうとか、物やら金やらも、それこそ神を杖につけば楽と仰せられるから、木や竹はおれる金の杖をつけば曲がるとおっしゃる。
 そこのところをです。分からしてもろうて、自分の心の中に、あの人に好かれ、この人に頼もうといったような心を捨てなければいけません。ね。そしてそこに神ながらな働きが起こって来るね。
 昨日研修の時に、私は目がこの頃大変薄くなってから、修行生誰々が出てきておるというのが、よくわからんのです。双眼鏡掛けてもよく分からない。で、たまたま、私はあのう、二、三日前でしたか、北野の秋山さんが、娘婿の伊地知さんから電話がかかってある難儀なお届けがあった。それで、すぐこちらへ電話をかけさせてもらいましたら、御結界に奉仕しとる先生が電話にでた。
 それであなたはどなたでしょうかと云うて、秋山さんが聞かれたら、ぼくは泰郎ですとこういう。泰郎先生だったらしんですね。若い先生がおりますね。そん時に秋山さんが感じられたというのは、その娘婿の名前がやすおというのです。ですから、も、それだけでおかげ頂いたと感じたというのですね。あの辺のところはそれだけでおかげ頂いたと感じたというのですね。日々信心の稽古をさせて頂い取りますと、そういう神様の働きをピシッとこうキャッチする事が出来る、そういう働きがあっておっても、信心がおろそかになっておったり、怠慢になっておりますとそれをキャッチしきらんです、心へですね、ね。おかげになるおかげ頂く。
 だから、その事を聞いておりましたから、例えば、まだ、若い先生、若いと云うてもどうでしょう。二十・・いくつ、あがりの先生ですが、御結界に、日々何時から何時までという時間を奉仕するわけですけれども、その奉仕がね、ただ事ではないというね。ただ何時から何時まで、自分の受け持ちだから、そこに座るんだとね、というのじゃなくて、この一時間なら一時間という時間がね、こりゃ、もういよいよ神様の御神意の中にあっての御用だから、おろそかに出来ないということをまあ、実感させてもらわにゃいけん。
 その事を伝えたいと思うて、私、あの、泰郎君にその事をあんたが先日、お取次さして頂いて、あんたが泰郎であったというだけで、もう向こうの方ではおかげ頂いとるばい。というように神ながらな御用だから、そこの御用が神ながらに出来なければ出来まいが、ということを云いたいと思って云ったら、泰郎君が御らんと云うのです。ね。
 で云うなら、ここで修行さしてもらって、研修に出て来てない、ちはどう云うことだろうか。誰が一緒にあの人の部屋におるかち云ったら、秦先生がそうだとこういう。なら先輩として、さあもう研修の時間ばい。さ、早くおかげ頂こうというてグズグズしとっても連れのうて来るということがほんなこっちゃないかと。合楽ではどうも神ながら主義がね、このまあ本当な意味ではない神ながらね。 いちいちそんなに云うことはいかにも神ながらではないような思い方をしておる。そう云うことではね、おかげにならん。
 今日の御理解で云うならばね、身体はちびるものではないから働けと、こうおっしゃっとられる。その働くと云うことが、人間心だけで働くというのではなくて、ね、人に頼り物に頼りという物ではなくてね、信心の心で、云うならば後輩の物がグズグズしとるならば、それをね、ま、声をかけてやるとか、さあ!というていく、それが神ながらなんだね。
 信心さして頂いてもう神ながらになって神様まかせなっておれば、働かんでよかということは絶対ないです。ね。
 昨日は御礼信話会でしたが、東京の方が毎月参ってお見えになられます。秋山さんて云うんです。まあ本当に、合楽に段々傾倒していかれるわけですが、先日、先日と云うでしょうか、今度見えてからでしょうか、あの私の誕生会の時の、修行生の出し物でした、あの勧進帳を見られて大変感動した話を昨日なさいました。
 私と年配が余り変わりませんから、お芝居が好きな、ですから、先々代の幸四郎の弁慶、先代の羽左右衛門の富樫、先代の菊五郎の六代目ですね、の義経、もうそれこそもう絶品の中の絶品といわれる素晴らしいその舞台を見せた。そのような芝居を見てきて、勧進帳をよく知っておるけれども、あん時には湧かなかったような感動がね、そのここの修行生の先生方のそれを見て思うて、真心一心の恐ろしさと云うようなね、恐ろしさと云うか真心一心と云うことが素晴らしい事だと。
 成る程、神様が働きなさったといわなければおられんとこういうわけなんですね。それには、ならひと月間というもの、とにかく、親先生が喜んでさえもらればと云う一念であった稽古。ならば、神ながら神ながらと言うて稽古もなあんもせんな、あれだけの事が出来るか、出来やしません。
 今日はひとつその辺のところを皆さん分かっていただきたいと思う。私は合楽理念の根本はとにかく、人間心を外して神ながら、その神ながらのおかげを頂く為には、場合には、生命をかけると言うような時があるね、ままよと云う心は心でもままよの事で、もう右・左はあなたに任せました。という任せきったその心であって、人間の身体はちびるもんじゃないから、働くが良いと云うその働きと、ひとつになったときに、初めて素晴らしい働きが起こって来るんですね。
 同じ同室におる修行生が、ま、グズグズしとるならば、それに云うならば、ま、しかもそれが先輩であるならば、その後輩の物に、さあとその一緒に勉強を教えてやったり、一緒に勉強する、その手だてを講ずると云うような心持ちがなからなければ、自分自身の信心の稽古にはならないね。
 そこには折角、ここで修行させて頂いとるのですから、ね、それこそ神の手にも足にもならせて頂こうと云う一念を、ならおこしたり、持ったりしておる物ばっかりなのですからね。
 ところがお互いその木になったからこそ、教師の資格も取り、ここで修行もさしてもらっとるけれども、そこが人間で、少しダレかかったり、落ち込んだりするような場合があるけれども、それをならば周囲の者が引き立てて伊好悪というね、神ながらそれがとこう、見過ごすと云うような事を神ながらと思うたりしておる人が合楽には多いです。ああ神ながらの、とこう云うような言い方をする。 自分の身体はちびるもんじゃないから働くが良いと、云う働きはせんどいてから、そしていよいよその日になってから、あんたが弁慶やれ、あんたが義経やれというてやったって、それだけの事が出来るはずがないでしょう。
 それこそ素人だけのまあようも、教える者もないのに、しかも小道具に至るまで、あれがここで作られたと云うことを聞いても、いよいよもって驚いた。真心一心がなからなきゃ出来るこっちゃない。その真心一心に、神様が感をましませて、なら、普通ではとても出来ないような、まああの勧進帳が出来上がったのです。
 だからあの、信心には、ね、そこんところがいるんです。どうもその神ながら主義、神ながら主義。働かんで於いて、神様の働きだけを棚からぼた餅的だけなものを願っておる。といったような事ではおかげにならん。為にはね、いわゆる今日の御理解じゃないけれども、私共商売人がです、十銭のものを八銭で売るということは、とてもとても。実際は私、何十年という長い商売をさして頂いとって出来なかったです。
 人が十銭で売るなら十一銭で売ることが商売が上手だという風に思っとったです。そしておかげ頂いたです、やっぱり。そんかわり、余分に儲かっただけお供えをすると云ったような、ま、考え方がですよね。云うならば御神意に基づく事。云うならば天地の中には、もう幸福せずにはおかんという働きがあっても、そういう働きに、そういう生き方では、まあ、一生懸命願うから頼むからおかげになるにしても、それは本当のおかげにはならないね。
 その為には私共がです。本当に商売人にソロバンを取れと云うことは、も、それこそ命ですからね。実際はソロバンを取ると云うことは。それをソロバンを外して、決して損せろということじゃないです。
 ただ十銭のものをよそよりも、二銭安く売ると云うことなんです。ね。それはやはりなかなか出来ないのですけれども、云うならばその気になると云うこと、
ままよと云う心。教祖様がこの様に教えておって下さるんだからというところにたって、商売をさしてもらうならば、云うなら売場買い場を大切にせろと仰せられるような教えを、本当に行じてこそおかげが頂けるじゃなくて、徳が受けられる、力が受けられるね。
 この辺のところは、ひとつよく、自分で分かって行かなければこれは、ね、放っておくことが神ながらだろうか。ここでひとつ、声をかける事が神ながらだろうかね、そこには例えばなら、修行生の方達が、あの劇をやる時に、も、とにかく親先生が喜んでさえもらえば、という一念にしぼったときに、そこはそうせずにはおられなかったというものが、信心にはいるわけですね。
 教祖の神様がこの様に教えておられる。教祖の神様の教えを守るとか、行ずるということが、教祖が喜んで下さる事はそのまま天地に通ずる事だという風に、確信させていただいてね、成る程天地の中には幸福せずにはおかんという、その働きばっかりなんだと云うことがです、段々分かってくると云うことが、神を信ずるということだ。
 そこには、神様から、また信じられる働きが起こって来て、初めて云うなら、あいよかけよの信心ね。神様と合楽しあえる、その情念も生まれて来て、ね、交流、次には生みなされるおかげ。これはもう、限りがない。
 どうぞと云うて下さいと云うて頂くおかげではなくて、生みなされる、天地と私共との間に、云うなら、交流が起こり、そこから生みなされてくるおかげが、こりゃ、もう無限大につながるものです。無尽蔵ですね。
 昨日でしたかね、あの天衣無縫のおかげが頂けるということはね、必要な時に、必要なものが必要に応じて頂けるといったようなおかげに世界と云うのは、そこを一遍乗り越えた、人間心を乗り越えたね、人力に見切りをつけて神力にすがる。 神力にすがると云うことは、神様にお願いしとるから後はどう・・働かんでいいと云ったような事じゃない。そこから自ずと湧いてくる人力ね、”人力に見切りをつけて神力にすがれ、人力自ずからわく”と云われる。
 その自ずからわく人力に触れたときに初めて、その人力と神力とがひとつになって交流し合うて、生みなされてくるおかげなんだね。ここで皆さんが頂かれる御理解が、日々、ただ、私が今日はこげな、いっちょお話をしようと云うてしとるのではなくてね、神様が皆さんに本当な、より本当なことを分からせようとなさる働きが、ここの御理解になって日々頂けておるのです。
 昨日私、ここ、四時さがってからでしたが、今朝の御理解の事はまあ恐れ入ったというような話をしてるんです。どう云うことじゃったのというたら、昨日はその兄ちゃんどんがおりませんから、一番したの栄四郎が朝の御祈念を勤めさせて頂いたんです。それで、その食堂で「明日、ぼくがせなん」「んなら、あんた教典のこれをちゃぁんと読む稽古ぐらいしとかないかんばい」ち、したら栄四郎が云うことがね、あのう、例えば、今日は白紙のところを開きましたから、その白紙についてお話をしましょう。今日の御理解と云うところだけを頂いたから、その御理解のその字についてお話をしましょう。そげん時には、もう教典は読まんでよか、そういうおかげを頂くが」ていう、いいよったそうです。
 そしたら、昨日は御理解の理を頂いたでしょう。理だけだった。だから読むことは入らなかったわけ。その事、こりゃ、まあいつもの事ながら、本当に恐れ入ってしまうという話を、昨日古川先生がしておりました。というように、神ながらなところから起きてくる、此の話なんです。合楽の場合は。
 ですから、皆さんがそれを神ながらに頂かずして、自分の人情でここだけは頂く、ここは頂かんちいうようなこっちゃなくてね、それ皆さん神ながらに頂くということ。その神ながらに頂くということをです、昨日私が修行生の方達に話したようにね、誰が落ちていきよろうが、そのグズグズしよろうがです、そげな事を知らん顔する、してる事が神ながらと云ったような間違った考え方から、ではなくてね、身体はちびるものではないから、働くが良いというその、自ずからわいてくるような働きが起こってくる信心を、まず頂くためには命をかけよという。 ま、これは大変厳しい言葉ですけれども、その気になれと云うことなんですね。云うならば、云うなら神様のんなら、お言葉を本気で行じよとするならば、人情を人間心を使うたら、ね、とても、ソロバンを外されないけれども、ソロバンを抜きにして、話して教祖様があのように教えて下さるから、とそれを、行ずる心と云うものは、なかなかやはり、度胸がいることだということね。
 けども、そこんところを行じさせてもらう。それが神ながら、なんだというね。あん時皆さんもご覧になったであろう。んなら、その勧進帳がです。
 これ、昨日あちらの竹島さんという、踊りのお師匠さんが昨日は御礼にでて来ました。私は昨日、そのお届けを聞かせてもろうて、教祖様の御教えというものがね、この様にも絶対なものだ、間違いがないと云うことを、ひとつひとつ実験実証して、あの教祖様は嘘をおっしゃってない、ということをあの確認していくことなんですよ。
 例えば、ね、死んだからと云うて、神の世話にならんわけにはいくまいが、死に際にも願え、とおっしゃるような、もう、此の世でこそ、願わなんばってん、死んだから先の事は願わんでもよか、ちいうごたる感じがなきにしもあらず、ですけども、昨日は伯母さんに90才の方の、お願いがしてございましたが、昨日、一昨日亡くなられた。して昨日は、その告別式に云って帰りに、ここへ寄られた。それが親先生、も、恐れ入ってしまいますことは、もうずっと、此の座っとりますから足が全然立たない。、もう、足がここの腰につく位に曲がっておられた。それがもうお国替えと同時に、足がそれこそすーっとまっすぐになったちいうんです。
 そして、もう神々しいまでな美しい顔になって、もう本当にあのう、竹島さん、あんたが、金光様にお願いしてくれ取るから、母がおかげ頂いたと大変、まあ皆から喜ばれたというお届けがございましたね。
 成る程、死に際にも願わなん事がわかりますね。もう、これはこのままじゃ、お棺に入れられんというような、その人が、もう本当に亡くなられたと同時に足がすーっとなった。ちいうんだからね。
 まあその人がそのお参りをしてきて、私が、ここにでるときに、時間があるもんですから、上野先生があの、先だってのいわゆる勧進帳をね、踊りのお師匠ですから一辺見なさいち、いうて、だから初めここの先生どんがするとやけんと、もう高を括って、初めの間は見よったけれども、しまいには、もう身が入ってしまいに、もう涙がこぼれて涙がこぼれてしようがなかったと。
 もうあのセリフのメリハリから、もうきちっとここで決まって、こうと云うところをピシッと出来て驚いてしまってから、と云うて昨日はそんなその秋山さんの話やら、また昨日竹内先生が発表して、竹内先生もそん時の事をお話ししておりましたが、もうとにかく親先生に喜んでさえもらえれば、というその一念で稽古させてもらって、初めて神様のおかげがここにこうして頂ける現れると。
 私はその竹島さんの話を聞きよってから、涙が私自身がこぼれてきたんです。私が例えば素晴らしい、とにかく素晴らしい。真心ちはこんなに素晴らしいものだと本気で思うておるのを、信者が分かって私も、その真心に触れて感動したと云うのですから、交流しないはずはないです。ね。私があげなもんと思うておるとに、この人が素晴らしいと云うても交流しないでしょう。
 私が本当に、真心一心と云うのは、素晴らしい事ではあると思うておるのをなら、その竹島さんが素晴らしい事を、分かって涙がこぼれたというように、一心に見て下さったというので、まあそれで有り難かったと・・・。そこに私の思いとひとつになるから交流するんですね。
 神様は例えば、ここと思われるところに私共の心が入っていく時に初めての交流。神様が云うならば、十銭のものは八銭で売れ、と仰せられるから、そげなわけにはいかんと云うところに、いつまでも交流がないわけです。そんなわけにはいかんちね、教祖様がああ教えられるのであるから、とそこに、その気になって、教祖の心とひとつになるから、教祖金光大神との、限りないおかげにもつながって行こうというものなんです。
 私は合楽理念ね、最近では御理念御理念とこう申しますが、その御理念の根本はまず、人間心からね、云うならば神情一筋に生きていくと云うその、その気になって、合楽理念を勉強しなければね、どんなにお徳が受けられるおかげが受けれられるという理念であってもね、助かりの理念と云われても、本当の助かりにはなってこないと思うですね。
 そしてなら、神ながらな、云うなら人情を人間心をなら、それは神様にお願いをしとる、お取次を頂いとるから、後はじぃっとしとっても良いと云うことは決してない。人間の身体と云うのはちびれるもんじゃないから、その線にそうて働くが良いと教祖はおっしゃっとられるね。そこに、云うなら、これが信心だと思うことを人にも伝えていこう、導いてもいこうね。ちびれるもんではない。
 そこんところを凝視させて頂くところに、初めてです、なら、あの素晴らしい、云うなら勧進帳が出来たようにね、その一生懸命の云うならば精進、それに神様のおかげ、それにもうとにかく、芯は親先生が喜んでさえくれればという、ところの一念がひとつになって、そのおかげ。人が云うなら見て感動するようなものが生まれてきたんだと思いますね。
 今日の御理解は、これは私自身が実際出来なかったんです。長年の商売さしてもろうて、ただ、儲かる事だけばお願いするとが、信心のように思うておった。教祖の御教えを守っておかげ頂こう、という事じゃなかった。
 昨日の御理解で云うとです、ね、梅の木とも何とも分からんような、根も葉もない花もない木に、ウグイスがとまっておったというのが、昨日の御理解でしたね。そこには梅の花が咲いてね、その何ともいえん香りにつられれうようにして、ウグイスがきて止まる、それが云うならば、本当のおかげだとね、神様のね、教祖がああ教えられるからというその、教えを守ってね、初めて頂くおかげが昨日の御理解じゃないですけれども、梅の花が咲いた、ウグイスが来いといわんでも来てくれといわんでも止まって、ホーホケキョをさえずるような、おかげが受けられるんだと云うのが、昨日の御理解でしたがね、私共長年の信心をさせて頂いておりながらです、これは私の若い商売の時にですね、ただどうぞどうぞと云うて、仕入れの事でも売ることでもどうぞ今日も繁昌致しますようにと云うて、お願いばっかりで、なら本当の繁昌の根本になるところの教祖の御教えと云うものは全然行じていなかった。

 以後テープには入っていません。